阿吽の喧嘩。

矛盾してる。だが、それでいい。

バラバラフェスティバル

人間は自分と同質な人間といた方がとりあえずは楽だと思う。色んな背景が一緒だといちいち説明しなくていい。「コミュニケーションコスト」なるものが低いと表現できるらしい。年齢なんかは最たるもので、例に出すまでもないだろうから、出さない。
では何を例えとすればよいのか?パッと思いつくのは金銭感覚とかだろか?
これが全然違う人と長期間付き合いを続けるのは至難の業だろう。貧乏人が金持ちに合わせるのは無理だが、その逆は簡単なように思える。しかしそれもかなりの柔軟さが双方になければ成立しない関係性だと思うのだ。
年収2000万とかの人と一緒にコンビニに行って、僕が「120円のおかかにするか、ちょっとフンパツして160円の焼き鮭にするか、それが問題だ。」とか言いながら、5分くらい迷ってたらどうだろう?
恐らく2000万の方は
『は?どっちも魚類やないか。早く決めろよ…』とか突っ込んでくれればまだいい方で、愛想をつかしてカウンタックで走り去ってしまうだろう。

少ーし話はそれたが、バックグラウンドが違うとなかなか大変だという事が言いたかったと見せかけて、実は違う事をこれから書く。

僕はバラバラな、どちらかと言えばあまりまとまりのない集団の中にいる方がしっくりくる。この話を赤の他人とした事はないけど、同意してくれる人はそこそこいるんじゃないかと思う。
その理由はかなり卑屈で、性質が不揃いな集団にいた方が自分のマイナスポイントが目立たない気がする、というものだ。あくまで気の持ちようだが…
不思議と自分の存在が許されるような、そういう感覚に包まれる。

同質な集団はそのまとまり故に同調圧力が働く。その組織のカラーみたいなものと違う色合いを出そうものなら、あっと言う間に染めようとしてくる。
バラバラな集団だとそれがないのだ。
それだけで精神的な呼吸がしやすい。
自分が引け目に思っているちょっとした事がバレてもそこまで突っ込まないでくれる。発達障害の人達の自助会に行った時も心地よかった。話をしに集まってるはずなのに、パソコンでずっと絵を書いてる女の子もいれば『ちょっと疲れた』から急に眠りだす人までいたが、周りも誰も突っ込まない。
すげー自由やな、と最初は驚いたが
バラバラな人間がバラバラのまま、そこにいる事が許される空間はとても新鮮だった。

中、高あたりは学校というのは閉鎖的なところだ、というステレオタイプなイメージをずっと持っていた。ちょっとでも変な事をしたらすぐに笑いのたねにされるから、縮こまってた記憶しかない。
変わった事をやって皆に認められるのは、いわゆるクラスのヒエラルキー上位の人だけだったと思う。昔はそういう暗黙の不平等に納得がいかなくてイライラしていた。まあ、今も納得はしていないか。
でも、今いる集団がバラバラで心地よいと感じるのは、他人をちゃんと観察する余裕が昔よりはできただけなのかもしれない、と思うようになった。
本当は高校のころも、しっかりと個性的だったはずで、記憶の中の学校のイメージは全部自分の被害妄想だったのかもしれない。今となっては客観視する術がないのが残念だ。

そう言えばワンピースの単行本でバラバラの実を食べたバギーが出てきた時、『あ、こいつ絶対桑原や!幽白の桑原の声に違いない』って確信して、アニメの初登場シーンで密かに喜んでいたのを思い出した。
「うらめしぃ!!」と
「むぎわらぁ!!」がすぐに
一致したもん。
ルフィがクリリンだった衝撃の方が圧倒的だったけども。

イメージはダメージ

イメージを操作できるかどうかって話なのだが、ちょっとした欠点でも自覚的かどうかで
頭がいいかどうかの印象がちがうと思う。
ただ感情的に悪口言ってるだけやなぁと感じる人と、意識して毒舌やってますって分かる人だと「善し悪し」は置いといて後者の方が頭良さげだ。頭良さげなイメージも時と場合で役に立たないだろうが…

これを踏まえた上で最近、会話の中で使えるズルい方法を一つ見つけた。
僕もまだ使いこなせてはいないが、応用がきくかもしれないし忘れないウチに書いておこうと思う。

誰かとしゃべっていて、
「カエルさんって○○なとこあるよね?」と皮肉を言われた時、
普通なら
『えっ?いやぁ、そうですかねえ。あんまり自覚ないんだけどー』
とか
『実はよく言われるんですよ』
とか言いながらお茶を濁してしまいがちだ。別にこれらも悪くないと思う。
しかし、軽く相手との間に上下関係が発生している感じが否めない。
そこで、今回のリカバリー方法。
その指摘された○○の内容をちょっとあからさまにしてもう一回やるのだ。演技やとすぐ分かるくらいならそれでいい。
そうすると、
①上手くいけば天丼効果が発生して笑ってくれるかもしれない。笑われるのではなく、狙って笑わせたように見せかければ勝敗は明白だ。フハハ。
②笑ってくれなかったとしても、先ほど皮肉混じりに言われた内容をワザとやる事で、「実はちゃんと自覚はあるし、意識的にやっているだけですよ」というアピールになる。オホホ。

そうやってリカバリーした後、○○の内容を吟味してそういうイメージは避けたい、と思うなら次からはちゃんと改める。相手からすればワザとやっていた事ならやめられて当然なのだから、ここは辻褄を合わせるためにも全力でやるしかない。性格を変える方法?とりあえず目の前の事に夢中にならずに自分のやっている事を実況中継していけばいかがか?実況中継が簡単にできるようになったら、自分を操作する事もできるだろう。難しい事だけど。

付け加えるとすれば、この手法の弱点。それは、同じ指摘に対して一回しか使えないだろうということだ。相手が違えばいけるかもしれないが、同じコミュニティ内ならやはり二回くらいが限界だろう。
イメージが定着する前に改善していかないと大変なんだから何回もやっている場合ではない。とりあえず指摘してくれた人には感謝しよう。これもまた難しい。

近しい人のTwitterを特定した。

特定した、というと何か僕が努力したみたいに聞こえるが、あちらも本名でアカウント登録してるんだからどうという事はない。

しかし面白くなかった。普通もうちょっと面白いでしょうよ!まあ、僕が読むために投稿してるわけはないので当たり前なのだが、何というか他人の頭の中覗けるというどす黒い欲望を!よくもまあここまで満たさないツイートがあったものだ!!けしからん!!
つい、匿名でイタズラしてやろうかと思ったほどだ。
ひどい!
また次にリアルで会っても何らイメージ変わらないやないか!
もっと裏表あれよ!
内面描写をしろよー!!
うわーん(T^T)

と、いうのが当面の感想だ。

僕の悪口書いておいてくれた方が
まだドラマチックやった。

あ、他人のTwitterの悪口言うだけの
こんな記事書いて投稿するのは
それはそれでひどい。

しかし、今回改めて思ったのは
本当に人それぞれなんだなぁという事。
わざわざ複数の顔を使い分けたりしない人間だっていてもおかしくない、ということだ。


いや、あれは表で実は裏アカウント持ってて、ヤガミライトばりに僕らを煙にまいてるのやもしれん。

そうだといいなあ。

一つ言える事は「こんなに尽くしたのに…」と思いそうになったらそれ以上の親切は一旦やめてみてもよいかもよ?くらいだ。


昔は誰かに親切にされた時はとても素直に嬉しくなったものだが
年をとるにつれて「この人は自分に優しくする事によってどういうメリットを得ようとしているか」とほぼ自動的に思考するようになった。オートマチックにだ。
成長したと感じるものの、ふと恐ろしくもなる。
もし、今後も親切にされたかったら相手の期待に応えるべく頑張らねば、という考え方になっているからだ。
それは、僕が思う「自由さ」からは遠のいている事になる。僕は他人からもそして自分自身からもなるべく自由でいる人が好きだ。
最近はラインやらメールやらで「頑張ってね」とか「頑張れよ」と打たなくなった。もっと正確にいえば打ってしまってからふと考えて、別の言葉に言い変えるようにしてる。意識的に頑張るという言葉を避けている。
「ご武運を。」とか「伸びしろあるよ」とかだろうか?(伸びしろはじゅんいちダビッドソンが使っていて便利やな…と思ったのでちょくちょく利用している。)
「頑張ってね」って言われた相手がすでにウンと頑張ってたらどうしようかと不安なのだ。

最近、知り合いで
「人間関係でストレスをためないように、基本的には相手に期待しない」
と言っている人がいた。
はじめから期待をかけなければ相手がどういう反応をしても裏切られたと感じることはない。とても有効な手段。
目の前の人が正直にそう言ってくれるとこちらとしては清々しい感じになる。
遠回しにお前は駄目だ、と宣告されとるやないか、という声も聞こえるけど。それはそれでいいじゃないか。お互いに期待してない者同士で続く人間関係というのはかなり貴重じゃないだろうか?
さらに、「許し」についても少し考えてみる。「相手を許す」というと一度裏切られたという感情が前提の行為なので、より尊いような気がするけど、よーく考えてみると「裏切られた」のが事実であれば、その期待した対象と自分の関係性を見誤った結果であるのだから、思い込んでいる程スバラシイ行いでもないな、と今書きながら思った。
「期待しない」の方がより相手を自由にできるスタンスに近い、きっとそうだ。

人生エクササイズ

人生について考えてみようと思った。
10分だけ。

まず、人生全体に対する目標をたてることの難しさである。高すぎても、低すぎても害がある。
こだわりなく、今を生きる、いうのも素晴らしいと思うがそれじたいが物凄くハイレベルな目標やないか!
どうすればいいのか分からないので途方にくれる。

現時点では目標がないことは悪い事だ、とは考えていない。
ただ、日々を過ごす時はやはり計画をたてて動いた方がよさそうだ。アドリブで人生が楽しめるのはやはり達人であると言えよう。
先ほどの「今を生きる」の難易度と同じ理屈だ。

そう言えば人生に理屈は必要だろうか?僕は必要ないと思っている。まだ「目標」とかの方が有用だろう。
僕は理屈が好きなだけだ、ということには最近気づいた。感情とか思考パターンに何かしらの定義や名前を与えてそれがどういう経緯で発生したのか。または再現できるのか。こういう事を考えることそのものが好きなのだ。
我流の心理学はこの先も続けるだろう。

10分って短い…
ふと、思いだした事があるのでもう少し書こう。

ある時期、人生とは何か?と問われたら

『ただの準備だ、と答えよう。』と思っていた時期がある。
なんか、こういう問いに自分なりの回答を持ち合わせているという事がかっこいい…と考えていた頃の事だ。
まあ、誰にも問われる事なく今日まできたのだが。

幼稚園に入るのは、小学校に入るための準備だ。小学校に入ると、ああ、中学生になる準備なんだなと思った。高校で大学入試に費やした時間は準備以外の何物でもなかった。大学はモラトリアムだ何だと言われていたが、バイトとかそういうのも含めて社会人になるための準備だ。社会に放り出されると将来に備えて、やれ保険に入れだの、お金を運用しろだのと言われるし、リタイア後を見据えて趣味も見つけろとはどいうことだ!
ずっと準備しとるやないか!
本番はいつ来るんだよ!!

と思ってゾッとしたことがある。

死ぬまで準備し続けるのか?
じゃあ人生って何だ?
常に本番なのか?本番も準備もくそもないのか?
考えても無駄なんやろうなぁ…
勝ち目ないんやろうなぁ…
と思いながら生きてきました。

今は「人生は準備だ」とは言わないだろう。
前より、分からなくなっているからだ。

「他人からの承認」という供給がないなら、とりあえずは自家発電でいいんじゃないのか?それで充電してから他人のために動いても悪くないと思う。

もうだいぶ前になるが、NHKの「ニッポンのジレンマ」という番組で、『承認欲求が肥大化する社会でどういうスタンスで生きていけばいいのか?』という話をしていた。今年の元日SPの反響をうけての特別枠だったらしく、いつもより人数が少なめ。そのぶん、元日SP では ほとんど発言してなかった小池龍之介が多めに喋っていたのでなかなか面白かった。(元日SP にいたっては途中で退席してたのでマジか!?という意外性はあったけども。)
番組の全体の結論は『他人の評価を気にしていてもしようがないよね。承認欲求からはある程度解放されて軽やかに生きていこうよ。』みたいな感じだったと思う。ゲストのうちで小池さんとホリエモンがこっちのタイプ。
もう1人、学者さんがいて、この方がなかなかバランスの良い方向に議論を持っていってくれていて好感がもてた。(なのに名前が出てこない)
小池、ホリエ組の意見は理想的ではあるけれど、『いや、そうなれないから苦労してんじゃーん!』と言いたくなる事も多い僕の気持ちを学者さんがほとんど代弁してくれた。感謝。ただ、一番問題意識をかきたてられたのは小池さんの

自分の好きな事でいきいきと人生を楽しんで生きなければならない、という一種の強迫観念で苦しんでいる人が最近ふえている。

という意見だった。
一見どこからどう見てもポジティブな価値観だけれど、これに固執してしまうとそれもまた毒になりうる。ナルホド、と思った。
承認欲求から自由になるっていうのは次元が違うレベルで難しいけど、まずは自分の悩みとか苦しみの原因の一つとしてそういう「欲求」があるんだよな、僕には。という自覚があるかどうかがスタートラインだという気がした。
このブログだってそうだ。
とりあえず「自己肯定感」について考えるという自分の中での基本スタンスはあるけど、

  • 一番はじめは色んな人のブログを読むうちに、自らを相対化できるようになったり、「自分と似てる思考をする人がこんなにいるんか!」と救われたような感じがして「正直に色んな事を書いてそれが誰かの心を軽くできる可能性があるんなら僕も書こう」と思い立った

という経緯がちゃんとある。
誰かの役にたてたとしたら、それは自分で自分の承認欲求を満たすことに繋がるから、どこまで行ってもこれは自分の、自分による、自分のためのブログだ。間違いない。
でも、自分みたいなやつはきっと1人じゃないから、自分を救うことは、すなわちこの世の誰かも救うことに繋がるだろう。

この理屈は、今の僕の自己肯定感の下支えになっているのだが、いかがか?
(このいかがか?は、「この理屈で楽になれる人がいるならお裾分けしますけれど、いかが?」のいかがである。)

サンジのタバコ

まあ、カフェインが多少カラダに悪いぞ?という事になったとて、僕は毎日コーヒーを飲むんじゃなかろうか?と思った瞬間に「ああ、タバコが好きな人はこういう感覚なのかな?」と思い至った。



ニュースでカフェイン中毒死の記事を見たときのこと。
親が『コーヒー三杯ぶんのカフェインで致死量に達するらしい』と言ってきた。

『なら、俺はもう、死んでいる。』
僕はそう返したが、北斗ネタとは気づいてもらえなかった。
それくらいは日常だ。

よくよく見てみれば1日に摂るカフェイン量の目安の表が書いてあって、それとカフェイン中毒死の文字が並んでいたから親が早とちりしたらしい。

コーヒーを相当なペースで飲む僕は、タバコは一切吸わないが、それは煙が健康に悪いというよりも自分の「吸い姿?」が客観的にカッコ悪いと判断しているためだ。わざわざお金を煙に変えてまで吸うんだから、アクセサリー的なメリットがどうしても欲しくなる。
一つだけ白状すると、自分はことタバコに関しては外見的な差別をしている。『煙草は似合う奴だけ吸えばいい。』という差別である。

曽野綾子のどの本だったかは忘れたが

  • 身体に悪いと分かっているものを自分に許容できるというのは、ある種の奥ゆかしさを感じる

みたいな事が書いてあって、それもなぜか印象に残っている。 (間違って記憶しているかもしれない。)
僕の好きな漫画のキャラとかは高確率でタバコ吸っているのも気のせいではないだろう。

カフェインの危険性がもっとピックアップされて、タバコと同じようにコーヒーのパッケージに「この飲料は貴方の身体にとって有害な物質を含んでいます。摂り過ぎは控えましょう」みたいな注意書きが目立つようになったら…
もしコーヒーが社会的に白い目で見られるようになったら、コーヒー好きな僕はどうするだろうか。
自分がコーヒー飲んでるシルエットは好きだから、案外飲んでるんじゃないか?とそこまで考えた時に、冒頭の考えが浮かんだのだが…

喫煙者の何パーセントが、カッコいいから、と思って吸ってるのか?一度聞いてみたい。

あと、カッコ悪いけど
コーヒー税は勘弁してほしい。