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阿吽の喧嘩。

矛盾してる。だが、それでいい。

事件に対するニュースキャスターのため息まじりのコメントを聞きながら時々思う事。


いつだかは忘れたが、『借り物でない自分の言葉で語ろう』というメッセージを聞いた事がある。借り物の言葉っていうのは、本で読んだもの、または映画の登場人物や、テレビの有名人が言ってたちょっといいなと思った言葉。あとは、他人のブログに書いてあった事とかあらゆるもんが含まれてくるんだろう。

ニュアンス的には『ちゃんと理解もしてないのに聞きかじっただけの言葉を軽々しく使わないようにね。』といったところだと思う。

この意味でいうと、Twitterのリツイートはそのまま誰の発言か分かる形で拡散するだけだから、素直で良いという事なんやろうか。

で、いざやってみようと意識すると『じゃあ、純粋にオリジナルな言葉だけで文章って綴れるのか?』『どこかで、自分のと借り物とを分ける線引きができるのか?』とか考えだすわけで、こりゃあ、無理ゲーだぞ…とすぐに降参するしかなくなる。

頭の中で繰り広げている言葉たちは、僕が思い出せる限りではやっぱり借り物だ。どこかで誰かが言ってたものばかり。偶然の言い間違いとかじゃないとオリジナルな言葉はそう出てこない。

そうか、単語レベルではないのか。単語の組み合わせでできる無数の文章表現の中で新しいものを考えろ、って事か。組み合わせは無限だからできるでしょ?ってことか。そういう挑戦状を僕はヤツから叩きつけられていたのか!
ああ、『挑戦状叩きつける』ってもはや使い古されてるよな。でもかっこいいじゃん、それで道場の看板かけて戦ったりするのってそれはそれで見てみたい。『お前たち、よく見とけ!!あれが本気になった師匠の姿だ!』みたいな展開は悪くないと思う。


…脱線した。今のところ、自分の中で『オリジナルじゃないもの縛り』を厳密にしだすと、もう、自分って何だ?皮を剥いてくと種があると思ってたけど実は玉ねぎで、最後は無くなってしまうんじゃないの?みたいな感覚になってしまう。(←この例えもよく見る気がする)これまで生きてくる中で他人から言葉を吸収して成長してるんだから、自分の部品は他人なんだから、少なくとも『言語』という文化というかルールの上では確固たる自分というのは感じられない。(そういう意味では文章を書くのは単純に楽しいってわけじゃない。)

そもそも、『こりゃあ、自分じゃないな』みたいな感覚は人生そのものにも感じる事でして。自分がここまで来れたのは運が良かったからだ、というしかない面が多々ある。周りの人がどういうタイプの人かは自分で選べない。自分が努力したという記憶もあるけれど、それをサポートしてくれた人と、その時にたまたま気力と体力があったのは偶然だ。
病気や、障害に負けないで戦っている人もいる、という意見もあるだろうけど健常者サイドからの勝手な評価が多分に含まれているし、『負けないくらいの精神力を持つ』幸運に恵まれてるという言い方もできる。ひねくれているだろうか?

そもそも今の自分の遺伝子も自分では選べないし… 飛躍しすぎだろうか?

でもこれらを完全に否定できる人っているだろうか?

どんな環境でも頑張っている人はいる。それは事実。でも、その人を突き動かしている『環境に甘んじる事なく精進するのだ!』という思想は選べたんだろうか?運よく子供の時にそういう思想を育む『環境』にいたんじゃないのか?
だったら、あらゆる所で運命の別れ道はあったはずだし、一つ道をずれて歩いていれば隣の人の境遇を自分が背負っていたかもしれないのだ。

結局は、今の境遇に対して謙虚になったほうがいい。またはそんなに卑屈になる必要はないんじゃない?という話がしたかった。

コンビニに強盗が入って5千円とって逃げました、というニュースを聞いて、
『おいおいコスパ悪すぎやろ。それだけの度胸があるなら、どうして綿密な計画立てないんや!』と心の中で突っ込んでみてから、でも、切羽詰まったら俺も同じ事するのかも分からん…と、ちょっと考える人が増えたら世の中住みやすくなる気がする(あ、犯罪者増えるだけか?!)