阿吽の喧嘩。

矛盾してる。だが、それでいい。

一つ言える事は「こんなに尽くしたのに…」と思いそうになったらそれ以上の親切は一旦やめてみてもよいかもよ?くらいだ。


昔は誰かに親切にされた時はとても素直に嬉しくなったものだが
年をとるにつれて「この人は自分に優しくする事によってどういうメリットを得ようとしているか」とほぼ自動的に思考するようになった。オートマチックにだ。
成長したと感じるものの、ふと恐ろしくもなる。
もし、今後も親切にされたかったら相手の期待に応えるべく頑張らねば、という考え方になっているからだ。
それは、僕が思う「自由さ」からは遠のいている事になる。僕は他人からもそして自分自身からもなるべく自由でいる人が好きだ。
最近はラインやらメールやらで「頑張ってね」とか「頑張れよ」と打たなくなった。もっと正確にいえば打ってしまってからふと考えて、別の言葉に言い変えるようにしてる。意識的に頑張るという言葉を避けている。
「ご武運を。」とか「伸びしろあるよ」とかだろうか?(伸びしろはじゅんいちダビッドソンが使っていて便利やな…と思ったのでちょくちょく利用している。)
「頑張ってね」って言われた相手がすでにウンと頑張ってたらどうしようかと不安なのだ。

最近、知り合いで
「人間関係でストレスをためないように、基本的には相手に期待しない」
と言っている人がいた。
はじめから期待をかけなければ相手がどういう反応をしても裏切られたと感じることはない。とても有効な手段。
目の前の人が正直にそう言ってくれるとこちらとしては清々しい感じになる。
遠回しにお前は駄目だ、と宣告されとるやないか、という声も聞こえるけど。それはそれでいいじゃないか。お互いに期待してない者同士で続く人間関係というのはかなり貴重じゃないだろうか?
さらに、「許し」についても少し考えてみる。「相手を許す」というと一度裏切られたという感情が前提の行為なので、より尊いような気がするけど、よーく考えてみると「裏切られた」のが事実であれば、その期待した対象と自分の関係性を見誤った結果であるのだから、思い込んでいる程スバラシイ行いでもないな、と今書きながら思った。
「期待しない」の方がより相手を自由にできるスタンスに近い、きっとそうだ。